夜道の暗さと星の明るさ

5月2日。

世間様はGW真っ只中という幸せムード。

明日も仕事だという思いから解き放たれたように、東海道新幹線は喜びに満ちて大荷物をつる人だらけだった。

僕はその日の昼、大学4年の5月にして、人生3回目の会社説明会に参加した後、都内の某スーパー銭湯でお湯に浸かっていた。人が次から次へと訪れるそこは、まさに芋洗い状態という感じだったけど、ゆっくりとした時間を過ごしていた。

ところでこの銭湯、なんでもこちらの界隈の人々の出会いの場として使われる事も多いらしいという話を聞いた。別に出会いを求めて行ったわけではないのだが、ふとその話が頭をよぎる。さすがに、もう足に鍵を付ける人はいないようだが、なんともまぁ、場所というのは人によって違う意味を持つものだなとふと感じた。

湯船を出たり入ったりを繰り返し1時間程時が流れ、遅れて、仕事終わりの相方さんがやってきた。なんかこんな流れだと、そういう意味の相方さんと思われる感じだけど、つまるところ恋人ね。

相方さんとは地元が同じ県なので、帰省する先は一緒。という事で、のんびりと湯につかりながら待ち合わせてたのだ。

「説明会どうだった?」

「んー、なんともまぁ、微妙ですな(笑)」

毎日家でしている会話の延長。

これから少しの間、違う家に帰るわけだが、なんだかんだ、今の自分の帰る場所はこの人のいる所なんだろうなと感じる、そんな温かな会話。

その後ゆっくりしすぎたと笑いながらかけ乗った最終新幹線。予定も立てずに帰省しようと思い立ったので、案の定東京から京都まで立ちっぱなしである。思ったより体にくるなーと思いながらも、なんとか到着。そこから、私鉄を乗り継ぎ、相方さんを見送ってさらに山奥に進むと、僕の生まれ育った故郷に着く。

終電車の終点駅は、何とも寂しいものだった。

山奥の町なので、こんな時間は誰も歩いておらず、足元を街頭とコンビニの明かりだけが冷たく照らす。

その駅から、実家に着くまでには、さらに1時間歩かなくてはならない。駅前でタクシーを拾う事も考えたが、まぁ、こんな時間に歩くのも悪くないと思い、暗い道を歩きはじめる。

本を買いに走った駅前の本屋。

小さな頃から買い物していた地元のスーパー。

こんな時間だもの、真っ暗である。

道はさらに暗くなる。街頭の間隔が徐々に広くなる。育った町とはいえ、日頃都会で暮らしている僕には何とも視界が悪い。

さらに山を登る。もはや街頭すらもない。足元も、周囲のものも、まるで形を持っていないかのようにぼんやしとしか見えない。

振り返ると、先程までいた駅近くの街々の光が、明るくきらめていているように見える。その場にいる身としては薄暗くても、遠くからその様子はなんともわからないものだ。

ふいに、僕は上を見上げた。

田舎の空はとても広く、自分が地球という大きな球体の中にいるということを目で教えてくれる。

星星が瞬きながらあちこちに散らばる。

どうなっているのかわからない場所に、1歩踏み入れるのはとても怖い。住み育った町でもそうなのだから、縁もゆかりも無い地での不安は想像もつかない。

星の光は僕の足元を照らす程の強い光ではないが、暗闇の中を歩く人間は、それでも、星の光を眺めながら歩くしかない。そうしていると次第に、星もまた、僕を見ているのではないかという思いが芽生えてくる。夜道でも、暗がりの道でも、1人ではないのだ。それどころか、より暗い道を行けば行くほど、視界に映る星星の数は増していく。

昔から、人は死ぬと星になるという言い方がある。ほしになって、大切な人の生きる姿を見守るのだ。ひょっとしたら、それは、こういう事なのかもしれない。

自分を信じる事と自分の心に正直に生きる事

モヤモヤしていた4月23日。

僕を元気づけようとしてか、空は昨日までの雨脚が少し小走りをしてくれたように雲一つない青空だった。

なんとなーく出掛ける気分になった僕の心を察してか、パートナーが「ちょっと遠出しよう」と一言

気がつくと、西武池袋線から直通終点の元町中華街まで来ていた。

f:id:hibiro:20170425210635j:plain

久しぶりのお出かけ(笑)

一瞬なりとも鬱々した気分から解放された気がする。

横浜で溢れかえる中華食べ放題のお店。

適当にぶらりと入って、気の向くままに食べ続ける。

「美味いなー」

そんな会話がとても暖かく感じた。

町中華街からみなとみらいまでぶらぶらと歩く。

途中、ぶらりと立ち寄ったカフェでお茶しながら、またダラダラと会話。

f:id:hibiro:20170425211012j:plain

以前はこんなにのんびりとした時間を持つ事はなかった。暇がなかったというより、心の余裕がなかったんだなーと感じる。のんびりとした時間。

横浜の海辺を歩いていると、そこには一面の花畑が広がっている。そして、花を美しいと心から感じる自分がいる。

そんな折、ふと目に止まったチューリップ。

f:id:hibiro:20170425211726j:plain

花は開ききっているし、背も他のチューリップよりずっと低い。だけどとても美しい。他のチューリップは高く伸び、そのせいで風に煽られ茎がしなる。だけどこの子の茎は短いけれどどこまでも真っ直ぐで、周りの花の事なんて気にしていないようで・・・。どの花よりも、美しく見えた。

誰しもに羨ましがられる人がいる。誰かに、尊敬される人がいる。かたや、誰かに見下される人もいる。馬鹿にされる人もいる。

だけど本当に美しいのは、誰かにではなく、生き様を自分自身に誇れる人なんだろう。人と比べるんじゃないんだ。人の意見にむきになるんじゃない。

ただ、そこに逞しく生きているという事実こそが、一番かっこいいし美しいんだ。そんな思いが込み上げてきた。

帰り道、僕らは映画をレンタルした。

丁度、美女と野獣の実写版が公開されたこともあって、なんとなく気分はディズニーだ。

f:id:hibiro:20170425212608j:plain

ドリーが困難に直面した時の、印象的なセリフがある。

「ドリーならどうする?ドリーならどうする?」

両親に会いたい。だけど自分は忘れっぽくて・・・と。自分の力に自信が持てなかったドリー。そんな彼女に友だちがくれた言葉は、ドリーの中で自信という力に変わります。

自分は自分のままでいい。

無理に変わる必要なんてなくて、自分の生き方を心から愛してくれる人がいれば、それだけで人は強くなれる。

1人でいられる人が強いわけではないのではないだろうか。完璧な人間はひょっとしたらいるのかもしれないけど、僕のような不完全な人間はむしろ、誰かからの愛がなくちゃ生きていけない。

ドリーは忘れっぽく、たぶん人間だったら何かしらの発達障害が付けられるようなタイプのキャラクターだと思う。

だけど彼女は、両親に会いたいとその心に真っ直ぐで、だからきっと周りも助けたくなるのだろう。

素敵な物語に、たくさん出会えた日だった。

きっかけをくれたパートナーに、今日も盛大に愛してると伝えてやろう。

きっとまた恥ずかしがるだろうけど、僕は自分の心に正直に生きる。君もそんな僕を愛してくれる。

ほんとそう考えたら、なんて幸せなんだろう。

本当にしたい事


4月13日(木)の事だった。

どうってことないその瞬間僕の直感が、今進もうとしているこの生き方は違う気がすると叫んだ。


大学に入ったのは丁度三年前。

ということで、四月から僕は大学4年目を迎えたのだった。

入学当時の僕は、大学院に進学し、臨床心理士の資格を取るのだと息巻いていた。どうして臨床心理士だったのか簡素にいうと、人の心の支えになりたかったのだ。


もちろん、これは漠然たる思いでしかなかった。だけど高校生だった僕がその思いに至ったのは、幼なじみの女の子の存在が大きかったからだ。


その子はとても心の優しい女の子だった。こんな書き方をすると、もしかしてその子が命を絶って・・・などと思われるかもしれないが、そういうわけではない(笑)

ただ、人に優しすぎる彼女は、いつも自分の事は二の次で、周りの人の事ばかり気にしていた。時にはその苦しみから、カミソリに手を伸ばしたこともあった。

僕は、仕事とかどうでもよく、ただそんな彼女の、支えになりたかったのだ。



2月頃の事だった。

地元の小さな田舎町に両親と暮らす彼女から、突然連絡が途絶えた。というよりも正確には、もう連絡してこないでと拒絶されたのだ。当時の僕は、20年来の付き合いなのに何を唐突にと、正直怒りの感情が先んじていた。大人気なくも彼女を自分も拒絶し、それから一切、彼女がどうしているかはわからなくなった。



その一件から数日、僕は何故カウンセラーになろうとしていたのか急にわからなくなり、自問自答を繰り返した。

臨床心理士のもつ意味は、「治療者」だ。少なくとも、うちの大学ではそう教えていた。


病院や学校等の施設で、問題を抱える人の心を治療するのだ。それは一種の、自己犠牲的な奉仕でもある。人の心に耳を傾け、様々な不のエネルギーをその身一つで受け止めなくてはならない。ゆえに、カウンセラー自身がとてつもないストレスに晒される。



f:id:hibiro:20170425121822j:plain


昔、週間少年ジャンプで少しの間連載されていた、『ダブルアーツ』という漫画があった。「トロイ」という触れるだけで感染する謎の病に苦しんでいた人々を救うのは、「シスター」と呼ばれる少女達。彼女らは一見治療者に見えるが、実は患者の中の「トロイ」を自らの体の中に受け入れ留めているにすぎないのだ。たまたま人よりも耐性が強いため、人々からは治療者に思われているが、「シスター」達は病の苦しみをその細い体一つに抱えながら、人目を避けてヒッソリと生涯を閉じる。


ふとその物語を思い出した僕は、何となくカウンセラーという存在が「シスター」のようではないかと思えた。本当に、かけがえのない、とても素晴らしい仕事だ。



だけど、僕の心にあったのは、自分がしたかったのはそういう事なのかという思いだった。


誰かの支えになりたい。そう思っていることは勘違いなんかじゃない。


だけど、幼なじみはさておき、僕の人生を支えてくれたのはカウンセラーではなかったと思い出した。



僕は子どもの頃から人が好きだった。だけど人見知りが激しく、打ち解けるまでは心を開かない子どもだった。どうしてかははっきり言える。


僕は顔中に、生まれつき痣を持っている。赤あざ、血管腫とも言われるらしいこの病気は、人体に害をなすものではないのだが、傍から見ると実に痛々しい。そんな自分の見た目がコンプレックスだったのだ。幸い、周囲にその事で虐めて来る人はいなかったし、中身を見てくれる人がたくさんいた事は、本当に恵まれていたと思う。


だけど、どこか感じていた「自分は人と違う」という感覚に、僕は次第に押し潰されるようになる。



そんな僕に、夢や希望を教えてくれたのは、マンガや小説、アニメの中のキャラクター達だった。懸命に生き、どんな試練にも立ち向かい、愛に溢れた創作物の中のキャラクター達。彼らの存在は、僕の中では決して架空の存在では片付けられないほど大きなものになっていった。



そうだ。そうだ。

僕がしたかったことは、物語を通して、人の支えになる事じゃなかったのか。



4月13日、僕の心を打ち続けていた思いの正体は、これだと気づいた。


臨床心理士になろうという思いは、僕の中では本当の自分の声ではなかった。現実的な話、両親に物語を書きたいとは言えず、それ以外の道を闇雲に求めた結果が、カウンセラーという職業なだけだった。


そういう訳で、今から遅いスタートではあるけれども、物語を紡いでいければと思う。なにぶん思いつめがちな僕だから、このブログはちょっと変わった自分探しのためのツールとして使う事にしよう。うん。